凶悪
(2013年/日本)

 死刑囚の告発をもとに、闇に葬られようとした殺人事件をジャーナリストが暴きだし、警察を動かし、犯人逮捕へと導いたノンフィクション「凶悪〜ある死刑囚の告発」(新潮45編集部編)の映画化である。原作(文庫版)を読んだとき、映画にする のは難しいだろうなと思ったが、これが2本目とは思えない白石和彌監督の演出にぐいぐいと引きつけられてしまった。そもそもハードな原作には迫真力があり、熱量が充満した実に読み応えのあるノンフィクションとなっている。まずは、その原作のほうを追ってみることにしよう。
 月刊誌『新潮45』の記者・宮本太一氏は東京拘置所に勾留されている知人から、東京拘置所内で重大な情報に接し、相談したい旨の手紙を受けて彼に会いに行く。平成17年2月のことだ。相談された内容とは、暴力団関連のトラブルから殺人を犯して死刑判決を受け、最高裁に上告中の後藤という男が余罪に関係しているというもの。しかも、後藤はそれらの余罪事件を世間に向けて発表したいので〝新潮〟の知り合いを紹介してほしいと知人に相談をもちかけていたのだ。宮本記者のもとに、後藤から余罪事件についてまとめた文書が届くが、そこには当事者でしか知り得ないような『事実』が克明に綴られていた。そして、後藤が関わった余罪、三件の殺人事件の首謀者は<先生>と呼ばれた不動産ブローカーであるというのである。
 三件の殺人とは、大塚某殺人事件、不動産略奪転売殺人事件、保険金殺人事件で、いずれも警察に把握されていないか、認知されていても事件性のない自殺として処理された案件だ。首謀者はいまだ野に放たれており、これがすべて真実であれば、社会に与える衝撃は計り知れないものがある。宮本記者は相当の覚悟をもって、東京拘置所にいる後藤の面会に臨んだのである。
 すでに死刑が確定している後藤が余罪を告白し、<先生>を殺人罪で告発しようとしたその動機とは何だったのか。死刑確定へのカウントダウンが始まったための時間稼ぎということもあり得るが、被害者への贖罪、そして<先生>への怒りだったのだろう。後藤は逮捕直前に可愛がっていた舎弟の生活の面倒を見てほしいと頼んだときに、<先生>は「引き受けた」と言ったにもかかわらず、舎弟を自殺に追い込んでしまう。そんな<先生>が娑婆でのうのうと暮らしていることに我慢がならず、後藤は報復に出たのである。
 宮本記者は後藤との度重なる面会や彼から受け取った膨大な量の手紙、宅下げで受け取った調書類などから、事件の裏付けをとるため、関係者たちに取材する。まるで事件現場を見てきたように克明に再現する宮本記者の筆致が冴える。
 死刑囚の告発が発端とはいえ、宮本記者の徹底的な取材がなければ、事件は闇に葬られたままだったに違いない。
 それでは、宮本記者を突き動かしたものとは一体何だったのか。公人としての正義感、功名心、記者としての矜持もあっただろう。しかし、この場合、真実を明らかにするためのリスクが大きすぎる。人の命を奪っても平然としていられる人物の周辺を単独で取材することは、闇の世界に足を踏み入れるようなものだからだ。よくぞここまで粘り強く取材を重ねて、発行へと漕ぎつけたものだと感心してしまう。言い方を変えると、宮本記者と後藤死刑囚との共同作業でもあったのだろう。

 白石和彌監督は原作の熱を逃さないように、複数の事件とそれに関わった人間関係のポイントをしっかり絞り込みながら、創作部分の練り上げと丁寧な演出で、現代社会の闇を衝く骨太のエンターティメントとして仕上げたのである。その手腕には驚かされた。彼は故・若松孝二監督に師事し、いくつかの作品に助監督として参加する一方、行定勲監督や犬童一心監督の作品にも参加していた人だ。撮影現場の空気がそのまま伝わってくるような臨場感、躍動感がある。

 映画では、宮本記者の名前が藤井、死刑囚の後藤は須藤という名前で登場するが、藤井記者を演じた山田孝之はあえて原作を読むことをせず、かなりストイックなアプローチで役づくりを行ったらしい。脚本は、原作にはない記者の私生活を設定し、山田の演技の幅を広げたと思う。認知症の母を施設に入れることへのためらいと介護に疲れている妻への後ろめたさを感じる一方、何かに取り憑かれるようにして困難な事件の全容を追い、深みにはまっていく変貌ぶりがすごい。しかし、山田孝之には気負いがなく、実に自然に演じているのだ。さらにいえば、彼の演技は、妻役に池脇千鶴が当てられたことによってより際立ったようにも思える。出番は少ないが、池脇は本当にうまい。義母の介護で憔悴していく妻の悲痛な思いが画面から静かに伝わる。池脇は抑制していた感情を言葉を選びながら訴えかけてくる。夫の仕事には理解を示してきただけに、現実の重さに耐えきれなくなってしまった.......。そんな思いをにじませる表情がなんともいえないのだ。事件解決のメドが立った夫に向かって「楽しかったんでしょ?こんな狂った事件、必死に追いかけて」と言い放つシーンなどは、特に印象深かった。
 須藤役のピエール瀧と<先生>役のリリー・フランキーも適役だった。二面性を見せる演技がかなり怖く、簡単に殺人を犯しながら、妻や子どもには優しく接するなど、日常と非日常?のギャップがあり、本当に怖い。須藤などはちょっとしたことでも頭に血がのぼり、凶暴になる。
 中盤以降の須藤と<先生>が保険金殺人を実行した回想シーンは暴力描写が過激なうえに長すぎるのが気にはなったが、そこは二人の激しい演技の見せ場にもなっている。借金を背負った男の家族も加担する保険金殺人において、糖尿病を患っている男に大量の酒を飲ませて殺そうとするシーンは凄惨である。蛍光灯がやけに明るい室内で、アルコール度数96度の酒や、覚醒剤を混入した酒を飲ませたり、スタンガンで痛めつけたりと、直視できないほどの過激ぶり。瀕死の男(演じるジジ・ぶうがリアル感があって気の毒なほどだ)を見ながら<先生>は腹を抱えて笑う。決定的な悪意があらわれ、平気で殺人を犯す者の暴力衝動が怖いシーンでもある。見ようによってはかわいい?顔つきにもなるリリー・フランキーだからこそ怖いのかもしれないが、逆に滑稽にも見えてくる。それはピエール瀧しかりである。おそらく、彼らの演技はそれがギリギリのラインだったのかもしれないが、熱演だ。
 原作ではその辺りのシーンが克明に描かれているので、映像においても正確に再現してリアリティをもたせたかったのだろうが、そもそも演出に力があるので、やはり、回想シーンは短くてもよかったような気もした。確かに、二人の凶悪さは伝わってくるが、その分、宮本記者が事件を追っていく過程をもっと細かく描いてもよかったのではないか。
 主要人物のほかに、雑誌の女性編集長や須藤の内縁の妻を演じた女優はいずれも舞台の人らしいが、妙に存在感があったということも付け加えておきたい。
 つい、キャスティングに目が向いてしまったが、映像の力は風景描写にもいかんなく発揮された。実際の事件の舞台となっているのは、埼玉県、茨城県の田舎町だが、光と影のコントラストも鮮やかで、一見のどかに見える昼間の風景もひとたび闇に包まれると殺気を帯び、特に海のシーンなどはぞくぞくするほどの恐怖を覚えるのである。

 人の命を簡単に奪い、金に換えてしまう男たちの凶悪さを描いて、怖い映画ではある。しかし、わたしは原作を味わっていたので、このエンターティメント作品から受けた怖さは軽減されたらしい。観る前に読むのか、読む前に観るのか。それはどちらでもいいのだが、わたしがこの映画で一番怖いと感じたのは、藤井記者が須藤と面会するために拘置所を訪れ、薄暗く長い廊下を歩いていくその後ろ姿を映し出したシーンだった。藤井記者と共に闇の世界へ吸い込まれそうになった。だが、それはまだ映画の序章にすぎなかったのだった。
 そして、藤井記者と須藤と<先生>が顔を合わせる法廷シーンの緊迫感と、ラストシーンの閉塞感は、映像だからこそ、表現することができたのだろう。

 全国の行方不明者は、年間10万人といわれ、約12パーセントが発見にいたっていないという。保険金殺人、資産強奪といったような計画的に仕組まれた事件に巻き込まれ、警察も見逃してしまった殺人が実行されていた可能性もあるのだ。「凶悪」で描かれたのは、氷山の一角なのかもしれない。

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