セラフィーヌの庭
(2008年/フランス・ドイツ・ベルギー)

 20世紀前半、パリ郊外で下働きなどで日銭を稼ぎながら絵を描いていた女性画家セラフィーヌ・ルイの生涯を描いた作品。
 繊細な映像が素晴らしい。『アメリ』や『パリ、ジュテーム』などに出ていたヨランド・モローの演技が素晴らしい。彼女は演技を超えてセラフィーヌになってしまっているのだ。
 セラフィーヌが「神の啓示」によって突然、絵を描き始めたのは40歳を過ぎてからだった。ひたすら描くのは花や樹木だが、自然愛好者の見たまま感じたままのスケッチではなく、天啓に従って神への捧げものとして描く絵なのだ。セラフィーヌの一挙手一投足に目を奪われてしまうほど、その細やかな描写(演技・演出)には驚嘆した。極貧のため絵の具の代用が野に咲く花であったり、肉の血であったり、溶かし油には教会から失敬した燈明油を使う。そして高らかに聖歌を歌いながら床に這いつくばって絵を描くのだ。無垢と狂気が一気に魂のレベルを上げていくという感じに。
 セラフィーヌを見出したのは、アンリ・ルソーの個展を開き、いち早くピカソを評価したヴィルヘルム・ウーデという人物だ。彼はセラフィーヌの唯一無二の世界に心を奪われ、彼女を援助するようになる。セラフィーヌとウーデの心の交流が素敵だ。彼女にとっては、初めて人間として、画家として認めてくれた人だったのだ。
 ウーデの後押しによっていくらか作品が売れるようになるが、もとより経済の仕組みとは無縁のところで生きてきたセラフィーヌは欲しいものを買い求めて行く。まるで子どものように目を輝かせて....。やがて、1929年の世界恐慌によって、企画されていた個展も開催することができず、セラフィーヌはしだいに精神のバランスを失って施設で人生を送るようになる。悲劇的にも見えるが、わたしは幸いだったと思いたい。神に選ばれ、自然に包まれて得た歓喜はそのまま作品に昇華されたのだから。
 作中、ウーデがルソーなどを「素朴派」と表現した新聞記者に対して、「素朴派とはいやな言い方だ。モダン・プリミティブと言ってくれ」と返す。ウーデの言葉はそのままセラフィーヌの絵を形容する言葉だったのだ。
 なお、本作は、フランス映画界の祭典セザール賞で、最優秀作品賞、主演女優賞など主要7部門を独占した。

 画家を描いた伝記映画は、『炎の人ゴッホ』『モンパルナスの灯』(モディリアニ)、『赤い風車』(ロートレック)、『クリムト』『エゴン・シーレ』、『サバイバル・ピカソ』、『ゴッホの生涯/謎の生涯』『フリーダ』などが有名なところ。また、中世ロシアのイコン画家・アンドレイ・ルブリョフを描いた『ルブリョフ』(1969)という作品もあるが、残念ながらわたしは未見。個人的には、グルジアの画家ニコ・ピロスマニの生涯を静謐かつ朴訥なタッチで描いた『ピロスマニ』が好きだった。
 ふと、画家の人生について考えてみる。ピロスマニのように、それほど絵が売れず貧困のうちに人生を終えた画家や夭折した画家が没後に評価されるということについて。
「稚拙」「素朴」果ては「時代のニーズに合わない」などと批判され、切り捨てられても、時代が変わって、誰かに発掘されて、再評価されることも多い。生きているうちに有名になるか、無名のまま終わるか。それは大きな違いだが、作品に吹き込まれた作家の魂だけは色あせることがないのだとすれば、他者のもっともらしい解釈など不要なのかもしれないなどと思う。
 ずいぶん前のことになるが、テレビのある美術関連番組でナビゲーターの女性がゲストの有名画家に「○○○はどんなことを考えてこの絵を描いたのでしょうか?」と質問を向けると、その画家は少々驚いた顔で「そんなこと僕にはわかりませんよ。僕は○○○じゃないんだから」と答えた。わたしも同感だった。

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