北海道室蘭市本町一丁目四十六番地/安田顕


幻冬舍 1300円

 安田顕という俳優を初めて観たのは3年前、NHKの朝の連続ドラマ『瞳』だった。何気なく観ていたら、なんと佃や築地が舞台になっていた。勝鬨橋や隅田川、佃の町並み、さらに築地市場が映し出されたので、東京を離れて半年ばかり経ったころの自分にはとても身近に感じられたのだった。安田顕は築地市場の鰹節屋の跡取り息子という設定。呑気でむさ苦しいが、どこかにくめないキャラクターが印象的だった。
 安田顕をネットで検索してみて驚いた。大泉洋(北海道江別市出身)の演劇ユニットTEAM-NACSの一人で、わたしと同じ室蘭出身だった。俄然、親近感を覚えた。
 以来、母と共に安田顕を意識するようになり、陰ながら応援していたのだった。といっても、TEAM-NACSの芝居を観に行ったわけでもないし、映画やドラマ出演の情報を得るわけでもなかったのだけれど。
 そんな彼がNHKの特集ドラマ『風をあつめて』(2011年2月)で主演を果たした。脇役で印象を残すタイプの俳優かと思っていたが、難病の二人の娘を持つ父親に成りきり、好演したのだ。
 その後、同年8月〜9月に放送されていた連続ドラマ『チーム・バチスタ/アリアドネの弾丸』の演技も印象を残すものだった。シリアスものからコメディまで幅広くこなせる俳優なのだろう。

 長い前置きになってしまったが、自伝的エッセイの要素が強い本書にガツンときてしまったこと最初に記しておきたい。幻冬舍発行の雑誌「パピルス」に連載されたエッセイと、番外編として組み込んだ父親との対談から構成されている。
 長い本のタイトルは安田顕の本籍だ。
「父の弘、息子の顕。二人とも、室蘭という街に生まれました。本籍、北海道室蘭市本町一丁目四十六番地。ちなみにこの住所、今はもうありません」
 まるで、昔語りの導入部のように、その文章がエッセイの冒頭に何度も登場する。本文は「ですます調」の文体で、なんともユーモラスな語り口が小気味良い。
 父から聞いた昔話をまとめたようなこのエッセイ集の大きな魅力は、父・弘の存在だ。タフでユニークな父のエピソードを軽妙に綴りながら、息子の顕は父・弘の人生の軌跡を辿っている。
「鉄のまち」にふさわしく、溶接工だった父は18歳のとき、圧延機(鉄を平たく伸ばす機械)の作業中に鉄の板に親指を挟んで失った。
「親指が広がって。痛てえのなんのって、わやくちゃよ」と笑い飛ばす父はクラシック音楽好き。若いころ、クラシックのコンサートのチケットをもらったとき、「クラシックなんて、金持ちの聴くものだ」と思ったが、いざ聴きに行ってみると、大いに感動。それがクラシック好きになるきっかけだった。
 特にベートーベンには思い入れがあった。ある日、何もかもが嫌になってふて寝しながら交響曲第九番「運命」を聴いていると、バチーッと目が醒め、これじゃ、いかんと外に飛び出したという。人間、いつどこで何がきっかけで目覚めるかわからないものだ。
 仕事、恋、酒、歌、病、映画など父を巡る話は新鮮だ。父の口から飛び出すジョークや本音の言葉に笑ったり、ホロッとしたりで、息子の父に向ける眼差しの柔らかさを感じる。父と息子のいい関係が見えてくるのだ。
 話は祖父母にも及び、安田顕は父の原点を知る。父が子どもだったころのこと、少年から青年になっていった時代、さらに息子が誕生したころのことを。安田顕は、それまで知らなかった父のこと、母のことを確認しながら、自分の内面と向き合うのである。
 遠くなってしまったけれど、十分な温もりのある時間を懐かしむ素直な安田顕の心情は、今を生きる家族や東京と札幌で離れて暮らす妻と娘への思いにも通じるものなのである。

 安田顕が生まれた1973年は、第一次オイルショックが発生した年だ。それを境に、16万人を超えていた室蘭市の人口は減少の一途をたどり、いまでは10万人を切り、同じ太平洋に面した苫小牧市はピーク時の室蘭の人口を上回ってしまっているのだから、寂しいかぎりだ。2011年の5月、全国で三番目に若い市長(33歳)が誕生した。新しい町づくりを目指して頑張ってほしいと思う。ちなみに、安田顕は室蘭のふるさと大使で、トークライブなどを行っている。
 わたしは安田顕とは世代が親子ほど違うし、住んでいた町も正反対の方角だけれど、記憶に残っている「鉄のまち・室蘭」の描写のひとつひとつがとても懐かしい。そして、今は存在しない住所にあった風景が時空を超えて、眼前に広がったように感じたのだった。
 本書を「愛おしい」と照れくさくも表現したくなる。それは多分、わたし自身が生前の父に聞きたいことがたくさんあったのにという忸怩たる思いと、生まれ育った室蘭への郷愁とが重なってしまったからなのだろう。
 最後に、この本を手に取ったとき、誰が描いたものなのかと気になった本文中のイラストの数々について。
 どこにもイラストレーターの名前が記されていないので、ハッと気がついた。大人には描けないような線とフォルム。なるほど、合点。安田顕の小学生の一人娘が幼児のころから描いた絵なのだろうと推察。クレヨンや鉛筆、ボールペンの線もある。一色刷りなので、線画に見える。なかにはクレーの絵かと思えるような絵もある。それらは不思議とこの本の雰囲気に合っているのだった。

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