地層捜査/佐々木譲


文藝春秋 1600円

『警官の条件』を読んだあと、今野敏の警察小説も立て続けに10冊ほど読んでみたのは、昨年の秋のこと。キャリアを主人公にした『隠蔽捜査』シリーズなどは、ストーリーとキャラクター設定がしっかりしているのでとても面白く読んだ。母共々、堅物でぶれない信念の人、竜崎伸也警視長に惚れ込み、すっかりはまってしまった。しかし、この辺で警察小説から離れようと思っていた2012年2月に、佐々木譲の新刊『地層捜査』の登場である。小説の舞台が、新宿は四谷の荒木町と知り、俄然興味を持ったのだ。
 新宿通りと外苑東通りがクロスする四谷三丁目交差点の北東ブロックに位置する荒木町は、こじんまりとした飲食店などがひしめき合うようにして並び建つ小さな街だ。わたしはそこから徒歩8分くらいの市谷台町というところに16年も住んでいた。四谷三丁目で打ち合わせのあと、小料理屋や焼き鳥屋に行ったり、散歩の途中でぶらぶらしたりと、わたしにとって荒木町はとても馴染みのある街だった。

 物語は、2010年の殺人事件の時効廃止を受けて、荒木町で起きた15年前の迷宮入りとなっていた老女殺人事件を、特命捜査対策室に配属された若い警部補の水戸部と、事件当時の捜査員だった退職刑事の加納の二人が再捜査していくというものである。
 作中の15年前とは阪神淡路大震災とオウム事件があった1995年、バブル崩壊後という設定だ。日本がバブル景気に沸いたのは、厳密には1986年12月から1991年2月までで、わたしが東京生活を始めたのはまさにその1986年12月だったことを思い出す。当時、荒木町にはおよそ不釣り合いな23階建ての八角形をした高層マンション(四谷曙橋ペアシティ)が建設中だったが、資金繰りが付かなくなって工事が中断。屋上にクレーンが放置されたままの高層マンションは「バブルの塔」などと呼ばれていた(現在「タワーレジデンス四谷」として甦っている)。あの高層マンションを見るたびに、暗澹たる気持ちにさせられたものだ。きっと、ビルだって泣いていたに違いない。
 バブル時代の東京を知らず、また、荒木町も初めて踏み込む街という水戸部警部補は、四谷生まれで荒木町を知り尽くしている元刑事の加納から荒木町の歴史や地理について教えを乞う。佐々木譲は、自らの足で歩き回ったであろう荒木町周辺の地理を丹念に描写しているので、わたしはうなずきながら近隣の街の風景を懐かしく思い出していた。
 かつて荒木町は花街だった。花街というと、新橋、赤坂、神楽坂、向島といった街が思い浮かぶところだが、そもそも荒木町は摂津の守の上屋敷があったところで、明治維新後に花柳界としてにぎわいを見せた街なのだ。芸妓は津の守芸者といわれ、芸のレベル、また板前の腕も一流だったらしい。昭和58年に三業組合(料亭・待合、芸妓屋)が解散し、検番も消えた......。
 被害者の老女がアパートのオーナーだったこと、そして、荒木町の芸妓だったという<過去の時間>が、物語の重要な骨子である。
 ベテランの加納は、バブル崩壊後の事件とはいえ、地価下落当時に見えていないものがあったかもしれないとして、再び暴力団が関与しているのではないかという筋読みをする。一方の若い水戸部は、被害者が芸妓だったことから花街時代の人間関係に重要な鍵が隠されているのではないかという筋読みをする。二人の地道な捜査によって町の記憶、手がかりが徐々に明らかになっていくのである。
 タイトルの<地層捜査>とは、15年前、さらに被害者が芸妓だった時代に遡ることで生じた時間の層と、荒木町周辺の大通りから事件現場に隣接する通称・河童池まで、かなりの高低差がある複雑な地形とを併せたメタファーなのだ。
 大がかりな捜査も、追いつ追われつの派手なアクションもない。なにしろ、設置されたばかりの特命捜査対策室だ。組織内の対立もない。しかし、タイプの異なる若手とベテラン捜査員の描写が面白い。年齢も経験も捜査方法も異なるため、最初から互いを意識しながら捜査を進めていくが、この凸凹コンビ、なかなかユニークで引きつけられるのだ。
 都心に近い小さな街の置き去りにされていた未解決事件という包みを静かに開いていくと、被害者と加害者の声が聞こえてくる。さらに時間の地層を切り崩してみると、街の記憶の底に眠っていた真実が見えてくる。
 そんな物語を象徴してか、未知の街と遠い時間を駆け巡った水戸部警部補の感慨が綴られたラスト十数行は、じわり叙情的である。

 警察小説というジャンルは、警察官を主人公とし、警察組織の人間関係をリアルに描くというのが特徴だ。佐々木譲はそういった警察小説を、北海道警察や警視庁を舞台にいくつも書いてきた。『地層捜査』では荒木町という小さな街をもうひとつの主役として克明に描き、新たな境地を見せていると評することもできるが、思えば、『警官の血』でも、谷中天王寺が主な舞台であり、街の光景や埋もれた時間を丁寧に掘りこしていたのだ。佐々木譲は警視庁の物語を書くにあたり、これまであまり書かれていない魅力的な街を舞台にしたいと考えていたときに、荒木町が花街だったことを思い出した。そして、荒木町の小料理屋に飲みに行き、そこの女将から「昔は店の隣が置屋だった」という話を聞いた瞬間に、ストーリー全体が見えてきたそうだ(「本の話」WEB参考)。
 わたし個人としても、荒木町は身近な街であり、思い出もあったりするので、こうして小説の舞台になったことを素直にうれしく思ったのだった。

『地層捜査』はシリーズ化される。<警視庁特命捜査対策室シリーズ>と銘打ち、早くも第2弾「代官山コールドケース」の連載が週刊文春で始まった。同潤会アパートの再開発前に起きた未解決殺人事件を、水戸部警部補が再捜査するらしい。代官山も小さな街である。次は何を掘り起こすのだろうか。
 コラージュを施したブルーがかったブックカバーデザインが、物語の雰囲気を漂わせて素敵だ。次はどんなデザインになるのか、それもまた楽しみである。
 ちなみに、『地層捜査』は雑誌「オール読物」に連載中から劇団グループ虎+現代制作舎によって舞台化が進められ、本書の刊行前の2012年2月に「荒木町ラプソディー」というタイトルで上演されている。映画化すると、面白いだろう。いや、小説の世界だけに止めておいてほしいとも思う。
 

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