ことり/小川洋子


朝日新聞社 1500円

<小鳥の小父さん>と呼ばれていた初老の男性が死後数日経った遺体で発見され、鳥籠の中には一羽の小鳥が止まり木にとまっていた。そんな場面から始まる物語だが、彼の死を<孤独死>として社会問題視する方向には傾かない。小鳥たちの声を聴き、小鳥たちの世界を見守り続けた兄弟の、子ども時代からそれぞれの死に至るまでの時間=世界がとても丁寧に静かに描かれているのである。

 小鳥の小父さんの七歳上の兄が意味不明の言葉を喋り出したのは11歳のころだ。医学的には失語症のような状態だったが、小鳥たちの声を聴き、小鳥たちへ思いを馳せた兄が生み出した独自の言語「ポーポー語」を理解できるのは弟だけだった。年の離れた兄弟の関係を綴った微笑ましいエピソードは、それぞれの特徴をとらえていてとても興味深い。

 相次いで両親が他界したとき、兄は29歳、弟は22歳になっていた。金属会社のゲストハウスの管理人として働く弟は兄を支え、その二人だけの生活は23年間続くのである。彼らは俗世間との関係を必要最小限にとどめているので他者との関係は希薄で、兄弟の行動半径も限られていた。遠くへ出かけることもない。特に兄のほうは、幼稚園の鳥小屋を見学すること、水曜日になると子どものころからの馴染みの青空商店(後に店主の代替わりのため青空薬局に)でお気に入りのキャンディーを1本買うことが習慣になっていた。
 兄弟と小鳥たちを巡るスケッチ。シジュウガラ、コゲラ、ヒヨドリ、ツグミ、メジロ、十姉妹など、いろいろな野鳥が登場してはさえずり、兄弟を楽しませる。著者は兄弟の目となり耳となり、奇をてらうことなく、難解な言い回しも排除して、小鳥たちの日常の変化や情景を平易な文章で淡々と、しかも丁寧に細かく描写していくのだ。

 兄の小鳥たちへの思いと、小鳥たちを守り続けたいという固い意志を象徴するような緊迫した場面がある。
 ひどい台風がやってきた秋の日、兄と弟はラジオから流れるバイオリン協奏曲を聴きながら、幼稚園の鳥小屋は大丈夫だろうか?という沸き立つ不安をかき消すように、それぞれが自分自身を励ます言葉を発する。小鳥たちが鳥小屋は安全であると信じて暴風雨にじっと耐え、決して騒いだりしないことを明確にイメージしながら、二人は明日を迎えようとする。しかし、弟が兄を励ますつもりだったのか、「小鳥を飼おうよ」などと言ってみるくだりがある。返事をしない兄に向かって弟は「どんな種類の鳥がいいだろうか」と次から次へと言葉を繰り出す。沈黙が痛く長く感じられる緊張の場面で、ようやく口を開いた兄は「小鳥はいらない」を二度繰り返す。弟には最初から兄の応えがわかっていたのかもしれない。ラジオの協奏曲が終焉に近づいたところで、家の外で何かが崩れていくような大きな音がする。そのとき兄は「僕たちの巣は安全だ」を二度繰り返すのだ。ラストの伏線にもなっている台風の夜のドラマチックな場面である。
 兄は中年になってから急に体調を崩し、幼稚園の鳥小屋の近くで力尽きてしまう。52歳の生涯だった。弟は園長先生から頼まれて鳥小屋の掃除をするようになり、いつしか、園児たちに<小鳥の小父さん>と呼ばれるようになる。まるで、兄の魂を引き継ぎ、兄の人生の延長線上に存在しているみたいに.....。
 物語の中盤以降も小父さんの日々は淡々と流れていくが、突如、彼の心に変化が訪れるのだ。ある日、利用していた図書館の若い司書に「いつも、小鳥の本ばかり、お借りになるんですね」と声をかけられる。それまで意識したことがない司書の顔を見て、すっかり動揺してしまった小父さんだ。借りていた本に関心を持ってくれていたことに、心が踊った。それがきっかけで、小父さんは図書館に通うのが楽しみなり、その度に気持ちが高揚する。
 彼の心の状態を読み手であるわたしが「彼は彼女に恋をした」と説明するのは簡単だが、それは便宜上の表現にすぎないのだ。どこにも恋の文字はない。好きだ、惚れたの言葉は見当たらない。著者は、ただ黙々と小父さんの視点を借りて、美しい司書の一挙手一挙足を映し出す。それはすなわち、小父さんの心の動きを追う描写でもあり、筆致が冴える。読みながら新鮮な感覚にとらわれ、こちらまでドキドキしてしまうのだ。
 ふと、個人的な遠い遠い時間を思い出した。ある特別な感情を既存の言葉ではなく、独自の言葉で表現したいと考えた時期があった。しかし、その考えるということも言葉に支配されてしまっていることに気づいて愕然となった。結局、言葉に意味を探そうとするからなのだろう。
 著者には「人と人が言葉以上のものでつながる関係を小説で描けないか。言葉を使って、言葉で表現できないものを表現する」という思いがある。登場人物にあえて名前を付けなかったのも、「言葉で表現できないもの」と向き合うための一つの方法だったのだろう。
 他者との関わりが少しずつ深くなってくると、小父さんはあらぬ噂の対象になったり、疎外されたりと、理不尽な扱いを受けて、何やら不穏な空気が漂いはじめる。それでも小父さんは小父さんのまま、時に耐えながら、時に大きく動揺しながら突き進み、ついには冒頭シーンの死の背景にあるものをそっと差し出してくれるのだ。

『ことり』の世界から受けとった感覚は、癒し、安らぎ、スピリチュアルといったものとはちがう。扉の向こうにある未知の世界への憧憬か。世界の片隅に広がる永遠の時間か..........。
ふと、 10年ぐらい前の大ベストセラー恋愛小説『世界の中心で愛をさけぶ』という威勢のいいタイトルを思い出し、嗚呼、『ことり』は<世界の片隅で静かに愛をさえずる>かなと.....。叫ばなくても聞こえてくる。小鳥のさえずりや兄弟の声が聞こえてくるのだった。

『ことり』を読んでから除雪していると、一羽の鳥がまるで『ことり』の世界から抜け出てきたようなタイミングで、庭の野バラの木に止まった。ヒヨドリだろうと思う。カメラを取りにいっている間も逃げずにちゃんとそこにいてくれた。口笛を吹いてみたら、あたりを見回したが、さえずることはなかった。そうだった。<小鳥の小父さん>の兄は口笛さえ吹くことをしなかった。ただ、そっと鳥たちを見つめていただけだったことを思い出し、少しばかり恥ずかしくなってしまった。
 再び、ヒヨドリ(先の鳥と同じかどうかはわからない)がやってきたのは大晦日で、今度は松の木に止まった。さらに、前姿を肉眼で見ることができた。頭頂部の毛が立ち、尾が長いので、やはりヒヨドリか。こちらを見て何かを囁いたように思ったが、たぶん気のせいだろう。

 2012年辰年の終わりに『ことり』に巡り会えたのは幸いだった。鳥に関する個人的な思い出、さらに過ぎ去ったさまざまな時間を引き寄せてくれた貴重な一冊になったのだった。
 

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