心はあなたのもとに/村上龍


文藝春秋 1700円

 書店の新刊コーナーで目についた一冊。15年ぶりの恋愛小説だそうで、タイトルが彼らしくない?ことも気になって、久々に彼の小説を読むことにしたのだ。
「わたし」(=ケンジ)の一人称小説は、恋人である香奈子の弟から彼女の死を知らせる短いメールから始まる。4年前の香奈子との出会いから現在に至るまでの時間の流れが、彼女から届いた送信日時と件名入りのメールと、そのときの状況と心境を乾いた文体で淡々と綴られていくという構成である。
 ケンジは投資組合を主催する五十路、離婚歴ありの元風俗嬢の香奈子は三十路で1型糖尿病を患っており、インスリン注射なしでは生きていけないという設定だ。 ケンジには二度目の結婚で二人の娘がいるが、信頼と愛情に満ちあふれた関係にあるというだけの説明で、作中にはほとんど登場しない。さらに、ケンジには香奈子以外にも愛人のような女が3人ほどいて、例えば、香奈子を見舞ったあとに定宿のホテルに女を呼び出しても罪悪感などは持たないといった具合だ。

 香奈子は風俗嬢から銀座ホステス、さらにケンジの援助を受けて管理栄養士の専門学校生へと転身。そう書いていくと、ひんしゅくを買いそうな男のように見える。最初は、ケンジに感情移入できなまま読み進んでいった。だがしかし......、中盤あたりから気づかされるのである。
 恋人と対峙する彼にとって家族や他の女との関係は背景の一部にすぎないのだと。逆にいえば、すべてを包括して形成されたケンジという人格の魅力にもなっている。また、ケンジは女から見れば誰にでも優しい男であるらしい。そうかな?誰にでも優しいということ、それは信念のない優しさだ。など茶々を入れたくなってしまった。
 手垢のついた?不倫や三角関係という切り口では、人間模様が混線して嫉妬や憎悪などが飛び交って通俗的な展開になりがちだが、ここではあくまで、ケンジと香奈子の関係性を追求するというスタイルに徹しているところが、妙味ともいえるのだ。 後半は友人や社員との関係性が描かれることによってケンジの輪郭が浮き彫りになってくるので、俄然、物語に奥行きが出てくるのだ。

 ケンジはうんちくを語る。なにしろ、投資組合のボスである。経済的な情報量が多い。しかも「  」のある会話文ではないので、とても読みづらい。これも村上龍スタイルだ。
 しだいにこちらはケンジが投資ファンドの世界と恋人との関係性を連動させて語っていることに気づいていく。ケンジは「女たちとの関係は金融市場に似ている」と言い切り、暴落のリスクと寄り添いながら信頼という概念を探し続けるのが、男女の関係なのだと考察する。それは村上龍自身の考察でもあるのだろう。「ン?」な部分も多々あったが、なんといっても読ませるパワーで押し切ってしまうのは、さすがだ。
 後半は病状を訴える香奈子の苦しくて切ないメールが続き、こちらもケンジと共にやりきれなくなる。どんなふうに締めるのかと少しばかりどきどきした。そうきたか!じわり泣けてきた。

「そんなの現実的ではない、そんな関係ってありえない」と思うかもしれない。しかし、小説だからこそ、そんな男女関係も成立するのだ。読みながら、どんどん気になる箇所に付箋をつけ、一読したあとそれらのページをじっくりと読み返した。これは龍流のマジックにかかってしまったな、と勝手に思ったしだいである。
ちなみに、タイトルの「心はあなたのもとに」は香奈子のメールの末尾にときどき記されるフレーズなのである。

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