abさんご/黒田夏子


文藝春秋 1200円+税

 75歳の史上最年長で芥川賞を受賞した黒田夏子の『abさんご』が刊行から約1週間で、発行部数が4刷14万部に達したという。横書き、ひらがな多用の実験的な?作品であることから、読者は珍しさ見たさ、未知の領域への挑戦、あるいは挑発されて、この一冊を手にとってみたのかもしれない。
「もう先が短いという年齢を気のどくにおもっての皆皆さまの御温情のおかげだと、深く感謝いたしております」。それが著者の受賞のことばだ(文藝春秋三月号〜一部抜粋)。「abさんご」は昨年9月に早稲田文学新人賞を受賞(蓮實重彦が選考委員)しているが、5歳から小説を書き続けて70年の著者は「ようやく見つけてもらえてよかった」と安堵したことだろう。

 書籍の形態は、受賞作が横書きのため左綴じになっているが、26歳のときの幻のデビュー作「毬」他2編は縦書きのため右綴じ?で、一冊が前からも後ろから読めるようになっているリバーシブル仕立て。通常、あとがきは文字通り本文のいちばん最後に添えられるのだが、ここでは「なかがき」として、横書きの終わりと縦書きの終わりの中間点に位置するというサンドイッチ構成。「あとがき」の居場所を失ってしまったかのように。

 本を開いて一見すると、小学生の低学年が書いた作文のように、ひらがなの大海原が広がって見える。最初は、頭の中でひらがなの単語を漢字変換しながら読んでいくので、難儀だなと思った。
 なれ親しんでいる熟語や形容詞や動詞がひらがなだったり、また、漢字とひらがなをミックスさせた言葉も目立ち、作者のこだわりが感じられる。たとえば、「一週間」を「一しゅうかん」、「三枚目」を「三まい目」、「衛生上」を「衛生じょう」などと、マニュアル重視の校正者に赤を入れられてしまいそうな表記だ。
 さらに、具体的な<物>の名称を避け、ときどき、唐突に独自の表現を用いる。傘は「天からふるものをしのぐどうぐ」であり、蚊帳(かや)は「へやの中のへやのようなやわらかい檻」、そして「ねむらせうた」は子守唄のことなのかなと、既成の言葉に置換してみる。まるで、その単語を知らない子どもが見たまま、感じたままを大人に説明しているようでもあり、こちらは面食らってしまう。

 目がひらがな表記になれてくると、今度は予想を裏切る迂遠な表現(読点の配置も規格はずれ)が気になり、読むうちにポイントがずれて内容をストレートにつかむことができず、あるはずの意味も曖昧模糊としてくる。それならばと、もう一度、読み返す。
 根気よく、時間をかけてひらがなの大海原を泳いでいるうちに、水温や水の抵抗にも順応し、一定のリズムにのって流されていくような感覚に満たされる。そして、声を出して読みたくなってしまうので、これは作者の術中にはまってしまったなと.....。 どうにか読み終え、日をおいてから再び読んでみると、これは、ますますもって不思議な世界の底へと、深く深くいざなわれていくようだった。

 人称も固有名詞もカタカナもかぎかっこも不在。ストーリーは求めず、15の断章で構成された記憶めぐりの旅といった趣きである。
 一人っ子の幼女期から少女期への成長過程、さらにもう少し大人になってからの記憶が行きつ戻りつ、時間の軸を揺らしてみせる。戦前・戦中・戦後、どの時間を切り取っても、空気は変わらずに濃いのだと気づく。もとより、記憶というものは、古い順に整然と並んでいるものではないからだ。記憶の断片をちりばめながら、決して散漫になっていない。
 ここには時代のにおいがある。家の中にひそむ微かな音が聞こえてくる。人たちの霞のかかったような営みがたちあらわれる。そう、気配を感じる作品なのである。
 大和言葉で綴るのなら、縦書きこそがふさわしいのではないか。しかし、そんなことは百も承知の著者があえて横書きを選んだのは、ふだんから横書きに親しんでいる現代人の感覚にマッチしていることもあり、結果として母国語の不思議さや奥深さが醸し出されたのではないかと思うのだ。ある意味、実験を楽しむ者のひそやかなたくらみにも似て、痛快さも感じるのだ。

 本書に併録されている縦書きの「毬」「タミエの花」「虹」の三つの短編は、タミエという少女が、毬であそび、草花を愛で、一度も見たことがない虹との出会いが描かれている。やはり、かぎかっこのない文章が長々つづき、ときどきポツリと「私」が登場することから、「私」の視点でタミエという少女を細やかに観察していることがわかる。それはそれは、彼女の特徴を巧みに描写しているのだ。『abさんご』の片鱗をうかがわせるほどの表現力である。ちなみに、「タミエの花」は昭和38年に読売短編小説賞に入選し、選考委員の丹羽文雄が賛辞の言葉を寄せたという。

 芥川賞の選考委員会では、8名のうち5名が賛成票を投じた。村上龍は「これほど洗練された作品が新人賞にふさわしいのだろうかという違和感のため」として推さなかった。山田詠美は独特の言い回しを「背中がくすぐったくてならなかった」、全体のトーンを「昔の前衛」と指摘し、「ひとりうっとり感も気になった」「トッポい感じ」などと率直な感想を述べている。どうやら生理的に受けつけない作品だったようだ。

 黒田夏子のアイデアと挑戦は日本の文学界に一石を投じたという見方もできるが、逆に珍作だ、スノッブだという見方もあるだろう。賛否両論が飛び交うと思う。なかには、そうか、自由に書けばいいのだ、と模倣したくなる人も出てくるかもしれないが、選考委員の高樹のぶ子などは、新人には『abさんご』の真似をするなと釘をさす。余計なお世話だとも思うのだが、その理由は「これはテーマと冒険心と、長年にわたる大和言葉の研鑽が作り出した奇蹟」なのだそうだ。確かに、一理ある。「奇をてらう」ことを超えた別の次元に位置する『abさんご』。黒田夏子は半世紀にわたって自分のスタイルに固執し、ついにあらゆる束縛から解放されて、いちばん表現しやすい方法に、たどり着いたのだから。ただし、今度は逆にそのスタイルに囚われてしまっては、本末転倒になるのだが........。

「私は大人にたぶん一度もならないで、幼女からそのまま老人になりました」(文藝春秋三月号〜聞き手は著者の旧友・下重暁子)と著者はさらりと述べる。個人的には、「子どもがそのまま大人になった」といった表現は苦手だが、インタビューを受けた彼女の飾り気のない語りと白髪ボブカットのたたずまいは、どこか浮世離れした雰囲気で、妙に納得してしまうのだった。
 著者は、今後も横書き、ひらがな多用のスタイルで小説を書いていくそうだが、個人的には版元のもめ事のために出版実現にいたらなかったという原稿用紙1000枚におよぶ長編など、日の目をみなかった作品を読んでみたい。次は泉鏡花賞受賞の予感がするのだが......。

 蛇足になるが、『abさんご』をはじめ、ここのところの芥川賞作品(西村賢太『苦役列車』、田中慎弥『共喰い』や円城塔『道化師の蝶』など)は、異形の表現世界に加えて、その人の来歴や言動などもメディアで取り上げられて世間の注目を集めた。「文藝春秋」の掲載号は通常の2割増し、さらに書籍の発行部数の伸びにもつながっているように思う。
 話題作がつづく芥川賞だが、権威と話題づくりの狭間?で、今後どのような作品に白羽の矢を立てるのだろうか。

<付録>
以下の文章は、『abさんご』の手法を勝手に下手に真似てみたもうひとつの読後感である。

  そくどくをならわしとしていた者にとってabさんごをよみつくすことは,からまる 
 糸をはやるこころをなだめすかしながらゆっくりゆっくりとほぐすことに似ていて,
 でぐちをもとめて迷路を活路にみたてながらさまようことにも似ていた.しまってお
 いたじかんをひきのばしてゆきついたところにもあからさまな答えなどは用意され
 ているはずもなく,よんだこともきいたこともないことばつづりの不思議をひたすら
 にたいけんした.   

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