色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年/村上春樹


文藝春秋 1700円+税

 前作『1Q84』第3部が出版されたのは、3年前だった。早いものである。今回も発売前から版元の担当編集者以外、内容や装丁など詳細が知らされていなかったなど、何かと話題になり、ふたを開けてみれば、1週間で発行部数が100万部というから驚異的だ。わたしは発売日の翌日に買ったが、奥付を見るとすでに2刷になっていた。新刊の場合、発売日の2、3日前には書店に並ぶことが多いのだが、本書に限っては著者の意向もあって、当日発売が徹底されたらしい。それにしても、ずいぶんと物々しく、また扇情的なマーケティング戦略だった。
 この作品を一気に読めたのは、いつもの喪失感にならされていることに気づいていたからだろう。確かに、三人称であり(一元描写だが)、登場人物にはフルネームが与えられ、スタイルはこれまでとは違った趣きなのだが、個人的には村上春樹の世界におけるパターン化された主人公の喪失感と人物造形といった感じを受けた。それはとりもなおさず、村上春樹が構築してきた揺るぎない文学の証でもあるのだろうか。

 物語は、36歳の電鉄会社に勤務する建築技師、多崎つくるが大学2年の夏に、名古屋の高校時代から親密につき合っていた4人の友人から絶交を言い渡されたため、半年間は自殺を考え、その後も喪失感を抱きながら生きてきたが、現在の恋人から絶交の原因を知るべきだと言われて、友人たちを尋ね、真実を探っていくというものだ。
 4人の友人が多崎との関係を断ち切った原因とは何か?それぞれの家に電話をしても決まって居留守を使われ、そのあげく、友人の1人に「お前とは顔を合わせたくないし、口もききたくもない」といわれた多崎がその原因をたずねると、「自分で考えろ」と突き返される。それは4人の総意なのだが、よほどのことがないかぎり理不尽な宣告などしないものだ。本人に身に覚えがないということは、本人も与り知らないところで、とんでもない濡れ衣を着せられたか、などと読み手は想像する。ここで少しばかり理解に苦しむのは、たとえそれが4人の総意であろうと、1人でも、多崎と対峙して、絶縁の原因を知らせてくれたなら、と老婆心が働くが、そこは謎を深めていくための序章なのだった。
 親しかった4人の仲間(男子2人、女子2人)の名前が、赤松慶(アカ)、青海悦夫(アオ)、白根柚木(シロ)、黒埜恵里(クロ)といい、それぞれの苗字に色が含まれているが、多崎だけが、<色彩を持たない>という設定。タイトルそのままが物語のポイントでもあるのだ。常に5人で行動を共にしていた高校時代から、多崎は自分だけが<色彩を持たない>ということ、その後1人だけ抜け出て東京の大学に進学し、卒業後も東京暮らしを続けてきたという異質の存在であることを自覚し、あるいは彼らに疎外感を抱いていたのかもしれない。それが全編にただよう喪失感の核となっているのである。

 前半は、多崎つくるを巡るエピソードが積み重ねられる。とりわけ興味深いのが、大学時代の回想シーンで、同じ大学に通う年下のクラシック音楽好きの灰田(彼もまた色のついた人間!)との出会いだ。多崎にとって灰田は新風を吹き込んでくれた敬愛すべき人物、心を許せる友となった。
 灰田の愛聴するラザール・ベルマン演奏のフランツ・リストのピアノ曲「巡礼の旅」を聴きながら、二人は多くを語り合った。まるでヘルマン・ヘッセの作品に登場する青年たちの真摯な語らいにも似て....。しかし、灰田は休学届けを出して忽然と姿を消してしまうので(初期の作品にたびたび登場する鼠のように)、以降は残念ながら登場することはないのだが、この二人の出会い、特に灰田の話は示唆に富んでおり、前半部だけを膨らませて発展させた物語が読みたいと思ったほどだった。

 後半は、多崎がかつての仲間たちと再会を果たし、しだいに真相が明らかになっていく。それにしても仲間から絶縁された原因を知ろうとしなかった多崎が、現在の恋人の沙羅に初めて過去の事実を打ち明け、しかも彼女から真実の追求をすすめられてようやくその気になるというのが、不思議だ。大学時代の一時期に出会った灰田には打ち明けようとはしなかった彼が、である。そこで、勝手に想像してみる。灰田とは現実的な問題が入り込めない関係だったのかもしれない、と.....。
 沙羅は仲間たちの消息を調べるなどのお膳立てをしてくれ、4人のうち、白根柚木(シロ)はすでにこの世にはいないという事実を彼は知ることになるのだ。
 多崎は自動車会社に勤めるアオに会って絶縁の理由がシロの思いがけない言動(シロの狂言なのだが)によるものであることを知り、強いショックを受ける。さらに自己啓発セミナーのようなビジネスを立ち上げたアカに会い、最後にはフィンランドで夫と娘と暮らすクロに会いにいく。なぜ、フィンランドという設定にしたのだろうか。やはり、『ノルウェイの森』を意識したフィンランドの森なのだろうか。

 多崎つくるとクロは死んだシロについて語り合い、失われた時間を埋めていく。しかし、ここで語られるシロはあくまで二人の目を通してぼんやりと浮かび上がってくるだけで、実体がない。どれだけ、シロが傷つきやすく、精神を病んでいたのだと説明されても、それは二人の印象にすぎず、感想でしかなくなる。こちらはシロの輪郭を想像することしかできないのだ。
 延々と長い会話が続く。会話文だけで真相に迫っていくという手法では、シロの存在が希薄になってしまうのは否めない。しかし、死者について回想し、彼女の行動を分析するシーンを避けると、物語の構成そのものを変えなくてはならないのだろう。ほとほと、小説は難しいと思うのだ。
 さらに、多崎はクロの前では、長年抱えもっていた不安をさらけ出す。自分のことを「色がない」「個性がない」と言い、「空っぽな容器」だと表現すると、彼女は「きみは心を惹かれる容器」であり、「どこまでもカラフルな多崎つくるだ」と多崎を包み込んでくれる。また、多崎が現在の恋人には自分以外にもつき合っている男がいるらしく、それが不安でもあると吐露すれば、クロは彼女を大切にしなさいと励ます。
 そんな多崎とクロの会話シーンは物語の佳境であり、著者も力を注いだことは想像できるし、熱も伝わってはくる。しかし、わたしにはどうしても過去のどれかの作品のよみがえりにしか思えなかったのだ。
ラストに至っては、果たして、これで多崎つくるは再生の一歩を踏み出せたのかどうか、曖昧模糊としている。
 たとえば、こんなふう.....。
「明日沙羅がおれを選ばなかったら、おれは本当に死んでしまうだろう、と彼は思う・・・・<中略>・・・・多崎つくるは完全に色を失い、この世界から密やかに退場していくだろう・・・」と綴り、「すべては無となる」などと懊悩する多崎である。しかし、わたしには沙羅との関係を壊したくないという彼の切実な思いが伝わってこなかった。これは、36歳の多崎つくるの<終わらない青春>なのだなと思ったのだ。いつか再読すれば、また違った読み方もできるのかもしれないが、それはわからない。

 本作は、『ノルウェイの森』の系譜だろう。あるいは、村上春樹の原点『風の歌を聴け』を想起させるものかもしれない。いや、一人称のスタイルが三人称に変わり、登場人物それぞれにフルネームが与えられはしたが、登場人物の人物造形も過去の作品のいずれかに類似しており、その文学世界に変化はない。また、三人称とはいえ、主人公の多崎の視点で描かれているので、彼の旺盛な自己分析が際立ち、特に仲間たちについては、会話を通してしか彼らの輪郭がつかめない。
 そこで思うのは、日本のいわゆる<純文学>は三人称で描かれていても、そのほとんどが主人公の一元描写であり、彼あるいは彼女の人生に寄り添うというスタイルで成立しているので、一人称のような小説になってしまうということ。おそらく、主人公の視点で始まる小説では、視点を移動させると、読者が混乱してしまうことから、一元描写に頼らざるを得ないのだろうとわたしは勝手に解釈している。
 ミステリー小説では、多元描写が多くみられるが、不思議と混乱することはない。たとえば、殺人事件などを扱った小説では、被害者、加害者、警察、メディアなどそれぞれの視点で描いても違和感がなく、物語の進行上は問題ないが、日本においては、それらは<純文学>ではなくて、<大衆文学>にカテゴライズされてしまうようなところがある。そこが、芥川賞と直木賞の違いであるかのように....。一方、西欧に目を向けてみると、ドストエフスキーにしてもトルストイにしても、多元描写の作品が多いのにもかかわらず、確固たる文学を築いてきたのである。日本の場合は、明治以来の近代文学のあり方、主人公の人生を描く=文学という図式が不思議な方向性を定めてしまったのかもしれない。小説は難しい。

 わたしは村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』(79年刊行)をリアルタイムで読み、衝撃を受けたくちだ。その特異な表現方法が新鮮だったのだ。以来、彼の著書の大半を読んできた。『ノルウェイの森』を読んだときに「村上春樹はどこへ向かおうとしているのだろうか」と戸惑ったにもかかわらずだ。習慣なのか、惰性なのか、自分でもよくわからないが、あるとき、村上春樹が『カラマーゾフの兄弟』のような小説を書きたいという記事を何かで読み、わたしは新刊が出るたびに、そうした作品を期待していたのかもしれない。
 村上春樹の登場は、わたしの周囲でもさまざな反応があった。わたしと同様に読み続けている人もいるが、『ノルウェイの森』から読んでいないという人や『ノルウェイの森』の前作にあたる長編『ダンス・ダンス・ダンス』を最後に読むのをやめたが、最近になって『ねじまき鳥クロニクル』は気になっていたので読んでみたという人もいる。とにかく『ノルウエイの森』以来、村上春樹の作品は国内はもとより世界各国で売れすぎたし、ここ数年ノーベル賞候補としてメディアに名を挙げられたりというおまけもついた。それが村上春樹にとって重い十字架になってしまったのだろうか。今更ながら、前作の『1Q84』は第1部だけで十分だったような気がする。などと、とりとめもなく、書きたいことが出てくる。いつかまた村上春樹の書き下ろし小説が刊行されたならば、わたしは何かを期待してその著書を買い求めるのだろうか。それはわからない。

 最終章において、1日延べ350万に近い数の人々が通過していく新宿駅の描写(あるいは俯瞰)で、気になる箇所があった。気にするほどのものではないだろうし、そんな読者はわたしぐらいなものかもしれないが、書き留めておこう。駅をつくる仕事に従事し、新宿駅が好きな多崎つくるは特別の思いで語っているらしい。
「1日24時間のうち、2時間か3時間がただ通勤するという行為に費やされていることになる。<中略>人の生涯のどのくらいの時間が、この(おそらく)意味のない移動のために奪われ、消えいくのだろう?」と......。多崎は通勤時間を「意味のない移動」と考える。確かに、本も新聞も広げることができない状態の満員電車に揺られて往復2〜3時間はただ疲れるだけの時間なのだが、「意味のない移動」といってしまえば、身も蓋もない。それは多崎だけでなく、ほとんどの人がそう思いたくなる通勤事情だ。しかし、誰かにとって「意味のない移動」でも、別の誰かは「意味のある必要な移動」と自分に言い聞かせて通勤しているかもしれないのだ。あるいは、「意味のない移動」という表現は、東京郊外から都心部に通勤するサラリーマンたちの不満と諦念に対する村上春樹の深慮だったのだろうか。
 いずれにしても、本作もまたいろいろな読み方(推理)ができるのかもしれない、と最後に記しておこう。

 蛇足になるが、村上春樹は本書の刊行後、18年ぶりに京都で講演を行い、新作についても語ったという。
「・・・・・『1Q84』に比べて、文学的後退だと思う人がいるかもしれないが、僕にとっては新しい試みだった」と。少しばかり、驚いた。これは、著者の被害妄想?からくるものなのか。わたしには、わからない。
本書を読んだあと、しばらくの間、小説を読む気持ちにならなかったのは、どういうわけだろうか。   

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